Kobayashi ayako biography of williams

  • Minho and taemin shinee biography
  • 小林綾子

    小林 綾子(こばやし あやこ、1972年〈昭和47年〉8月11日 - )は、日本の女優。

    東京都出身。東映マネージメント所属。以前は東映児童演技研修所→東映アカデミータレント部に所属していた。

    来歴

    [編集]

    • 1999年に4歳年上の大手建設会社勤務の建築デザイナーと結婚したが、2010年に離婚した[3]。元夫との間に子供はいない。
    • 以降女優業の他、現在(2016年)は旅番組や情報バラエティ番組でも活躍。

    エピソード

    [編集]

    幼少期

    [編集]

    幼少期に放送されていた子供向け特撮ドラマ『がんばれ!!ロボコン』(NETテレビ(現・テレビ朝日)系列)のヒロインであるロビンちゃん[注釈 1]がチュチュやを着て踊る姿に憧れ、3歳から近所のモダン・バレエ教室に通った[2]。しかしほどなくしてクラシック・バレエ(詳しくはバレエを参照)でないと、憧れのトウシューズがはけないと分かって他の教室を探すことになった[2]

    後日、母が見つけてきたのが東映児童演劇研修所で、母から「ここならバレエだけでなく、歌やお芝居の勉強もできるみたいよ」と勧められて入所[注釈 2]。すると劇団に入って3か月頃にポスターの仕事をもらい、ほどなくして『仮面ライダー』などのテレビ出演もトントン拍子で決まった[2]。以後、ドラマ『Gメン'75』、『特捜最前線』などに子役として出演した。その後も劇団経由で様々なオーディションを受けたが、1年ほど経つとしばらくは不合格が多くなった[2]

    『おしん』で一躍、人気子役に

    [編集]

    朝の連続テレビ小説『おしん』のオーディションに「きっと今回もダメだろうな」と思いながらも参加すると、主人公の少女時代に抜擢された。出演期間は6週間だったが、1冊2cmほどの分厚い台本を6冊と、本作の舞台の1つである山形県の方言テープを渡された。初めての撮影に入るまでの約1か月間は、母と二人三脚で台詞を頭に叩き込む毎日[注釈 3]を過ごした[注釈 4]

    放送開始後から世の中が「おしんブーム」になると同時に、小林の知名度も一気に上がった[注釈 5]。当時小林が街なかに行くだけで「おしんだ!」とすぐにワーッと人が集まり、電車に乗るのも大変な時期があったという[2]。ただし、地元では以前と変わらない接し方をされたことから自然体で過ごせ、普通に学校に行ってクラブ活動や塾にも参加しており、当時プレッシャーに感じたことはなかった[2]。本作が世界各地で放送されると小林も10か国近くから色々とイベントに招待され、各地で熱烈な歓迎を受けた[注釈 6]

    『おしん』の放送期間中、複数社からCMキャラクターのオファーを受け、カルビーかっぱえびせんのCMに起用され、おしんの少女時代をイメージした「綾子の大根飯」編が放送され「腹が減ったときには大根めしでもうまかった」とそのドラマの台詞を再現する行があった。

    若手女優時代

    [編集]

    中学・高校時代は学業を優先しながらも、土日や長期休暇を利用して女優業を続けた。当時親戚に教師が多かったことから、「将来は小学校教師になりたい」と大学進学を決意。遡って小学6年生の頃に日中青年友好交流に参加した際、周りの大人たちが英語で会話しているのを見て英語に興味を持ったことから、その後大学で英米文学を学ぶことを決めた。

    大学生として就職活動の時期になるがその年は就職氷河期で、企業まわりで苦労する友人から、「綾子は好きなこと(芝居)ができていいね」と言われた。その言葉を聞いて「自分は表現することがやはり好きだ」と改めて気づき、大学卒業後も女優を続けることを決意[注釈 7]

    10代の頃は役者として、「テレビに関しては、ある程度表現できている」と自負していた[2]。しかし20歳に出演した初の舞台『流水橋』では、テレビで培ったことが全く通用せず、大きな挫折を味わった[2]。その様子に気づいた山岡久乃(本作で育ての母親役を演じた)から、手取り足取り芝居のイロハを教えられた[注釈 8]。以前なら上手くいかずにウケが悪かった場面で、山岡の教えにより間(ま)が良くなったことで、ある日客席がドッと沸いた[2]。その場面が終わって楽屋に戻る途中、待っていた山岡から「できたじゃない!!」と抱きしめて一緒に喜んでくれたという[注釈 9]

    人物

    [編集]

    出演

    [編集]

    テレビドラマ

    [編集]

    ドラマ以外のテレビ番組

    [編集]

    他多数

    映画

    [編集]

    舞台

    [編集]

    • 芸術座 「流水橋」(1992年)
    • 明治座 「雁」(1993年)
    • 中座 「わが歌ブギウギ」(1994年)
    • 明治座 「樋口一葉」(1997年)
    • 新歌舞伎座 「五弁の椿」(1997年)
    • 帝国劇場 「風の盆恋歌」(1998年)
    • 芸術座 「雪国」(2000年)
    • 博多座 「出雲の阿国」(2000年)
    • 明治座 「旗本退屈男」(2001年)
    • 中日劇場 「信長」(2003年)
    • 梅田コマ劇場 「剣客商売」(2003年)
    • 三越劇場100周年記念公演 「雪の花道」(2004年)
    • 松竹座 「剣客商売Part3」(2006年)
    • 明治座 「忠臣蔵」〜いのち燃ゆるとき〜(2007年)
    • 御園座 「エドの舞踏会」(2007年)
    • ル テアトル銀座 「カラミティ・ジェーン」(2008年)
    • 新橋演舞場 「おしん」主演舞台(2008年)
    • なんば新歌舞伎座最終公演 「拝領妻始末」(2009年)
    • 御園座 「おしん」 主演舞台(2009年)
    • 明治座 「天璋院篤姫」(2010年)
    • 銀河劇場 「華々しき一族」(2010年)
    • 明治座 「小林幸子特別公演」〜旅館華村若女将〜(2011年)
    • 明治座 「かたき同志」(2013年・2015年)
    • 新歌舞伎座「福田こうへい特別公演~望郷 風の流れ旅」(2022年)
    • 東京建物 Brillia HALL・ 梅田芸術劇場「SUNNY」(2023年)
    • 明治座「新春純烈公演」(2025年)[12]
    • 三越劇場「花嫁-娘からの花束-」(2025年)[13]

    CM

    [編集]

    ラジオ

    [編集]

    アニメ

    [編集]

    吹き替え

    [編集]

    [編集]

    脚注

    [編集]

    [脚注の使い方]

    注釈

    [編集]

    1. ^少女型のバレリーナロボットの設定で、島田歌穂が演じた
    2. ^その後母から聞いた話では、同所の募集要項に「歌や芝居のレッスンで成績優秀な者はテレビや映画に出演できる」と書いてあった。この時母は『まさかうちの子に限ってそんなことはないだろう』と思って入所を勧めており、小林も習い事の一つとして入ったという[2]
    3. ^また、ドラマスタッフから台本を渡された際、「お芝居は責任を持って指導しますから大丈夫。ただ、台詞だけはきちんと覚えてきて下さい」と言われた。
    4. ^実際には台本の台詞を山形弁に書き換えるところから始まり、イントネーションを書き込み、小林がおしんの台詞を言って、それ以外の相手役の台詞を母にやってもらった。その練習を学校に行く前と帰宅後に毎日行った結果、撮影日を迎えた時点で相手の台詞も含めて丸暗記に近い状態で頭に入っていたという[2]
    5. ^本人は後に、「おしん役をやらせてもらったことは自分の財産だと思っています。『おしん』があってこそ今の自分があると思います」と語っている[2]
    6. ^本人によると、当時日本といえばホンダやヤマハ<オートバイなどの製造会社>などの企業のイメージを持たれていた東南アジアの人々から、「日本もほんの数十年前まで貧しい国だったんだ。自分たちも頑張れば日本のようになれると思ったら、すごく希望が持てた」と言われたことがあったという。本人は「あのドラマが世界に与えた影響の大きさを肌で感じました」と回想している[2]
    7. ^本人は、「それまで経験した女優としてのベースをゼロにしてしまうなんてもったいない。今まで培ってきた経験を活かして仕事をしていくのが、私にとって一番いいことだと思えました」と述懐している[2]
    8. ^一例として、山岡は公演期間は終演後にわざわざ居残って稽古をつけてくれ、台本を見ながら「この台詞を言う時はここでブレス」、「ここからここまでは一息で言う」など息継ぎの仕方を丁寧に教えてくれたという[2]
    9. ^本人は「客席が沸いた瞬間、“山岡さんがおっしゃっていた(台詞を言う時のブレス指導)のはこれ(間が大事ということ)なんだ!”と分かりました。『流水橋』は、私にとって今でも忘れられない舞台です」と述懐している[2]
    10. ^具体的には、芝居を見た人から「元気になったわ」、「明日からまた頑張れそうな気がする」などと人を励ますことができる仕事はそれほど多くはないと思います。そう言っていただくと女優冥利に付きますし、作品が出来上がるまでどんなに大変だったとしてもその言葉で全て報われます」と語っている[2]

    出典

    [編集]

    外部リンク

    [編集]